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ブラームスの生涯


 今回取り上げているドイツレクイエムについて書いて見たいと思いますが、まずは作曲者であるブラームスの生涯から入りたいと思います。ただ、申し訳ありませんが、今まで何度か書いたモーツァルトやバッハは長年興味をもって色々な本を読んだり、LP、CDを買い込んだりしていましたのでそれなりに蓄えがあったのですが、ブラームスはそこそこには聞いていたものの、人間にはあまり関心が無く、今回レパートリーとなったのを機会に少し勉強してみようというレベルですので、あまり面白いことは書けないと思いますがご容赦ください。

1.いつ頃の人か

 結論的なことを先にかきますが、生まれたのは1833年、死んだのが1897年です。筆者より115歳上、まあ、4世代上で、曽々祖父というところでしょうか。日本の時代に当てはめると、江戸幕府の末期、文化文政時代といわれた第11代将軍家斉が死んだのが1837年で、それ以降第12代将軍家慶の時代となって、天保の改革など最後の体制建て直しの努力が続けられる時代です。また、かの坂本龍馬が1834年生まれですからブラームスとほぼ同い年です。ブラームスが亡くなった1897年は明治30年に当たり、日清戦争は既に終わっています。こういうことをご紹介したのは、割りに近い時代の人だと思っていただけるのではないかと思ったからです。
 では、我々が良く名前を聞く他の音楽家とどういう年代の関係になっていたでしょうか。
 ベートーヴェンはブラームスが生まれる1833年の6年前、1827年に死んでいます。ということで接点はありませんが、ブラームス自身はベートーヴェンの後継者としての意識を非常に強くもっていましたので、間接的ではありますが大きな影響を受けています。
 ロマン派では、メンデルスゾーンが1809年生まれですが1847年に早世していますので直接の接点はありませんでした。シューマンは、生まれはメンデルスゾーンとほとんど同じ1810年でしたが、1856年まで生きたことと、ブラームスがたまたま友人を介してシューマンに紹介されたことで、二人は出会いの機会を得、ブラームスは私生活を含めて決定的な影響を受けます。
 ブラームスと活動時期が重なった作曲家としては、ワーグナー(1813−1883)、ヴェルディ(1813−1901)、リスト(1811−1886)、ドボルザーク(1841−1904)、ヨハン・シュトラウス二世(1825−1899)、リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)、ブルックナー(1824〜1896)等が挙げられます。このうち、最初の3人は、ブラームスとは正反対の音楽の方向を目指して活動していたため、両派の対立の様が色々と伝わっています。
 また、地域が離れていましたが、我々に馴染みの深いチャイコフスキー(1840−1893)、グリーグ(1843−1907)もブラームスを訪れています。
 他に少し早い世代として、ベルリオーズ(1803−1869)がいます。筆者自身はもっと若い世代だと思っていたのですが意外でした。

2.家系と家族

(1) 家系・両親・兄弟

 記録が残っているのは曽祖父の時代からで、ドイツ北部のハノーファー(日本語読みではハノーバー)出身で車大工でした。祖父ヨーハン・ブラームス(1769−1839)は宿屋や商売を営んでいました。父親のヨーハン・ヤーコブ・ブラームス(1806−1872)は、やはり北ドイツの町ハンブルグに移り、町音楽師になりました。彼は、ブラームスの家系では最初に音楽を職業とした人で、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、フルート、ホルンを学び、加えてコントラバスも独学で習得したと言います。どういう楽団だったのか資料は残っていませんが、何でもやらないと食べていけなかったのかもしれません。一番の稼ぎ口だったのは皮肉にも独学で習得したコントラバスだったそうです。それでも家族を養うには十分な収入はなく、写譜などをやって家計を補っていたそうです。
 我らがヨハネス・ブラームスは上述のヨーハン・ヤーコブ・ブラームスが17歳年上のヨハンナ・ヘンリーカ・クリスティーナ・ニッセン(1789−1865)との間に長男としてハンブルグで生まれました。2歳年上の姉と2歳年下の弟の3人兄弟でした。

(2) 恋人

 本人の家族はというと、生涯独身を通しましたが、決して堅物を通したわけではなく、伝記によれば何人かの女性との恋が描かれています。
 まずは恩師シューマンの未亡人、クララ・シューマンとの仲が有名で、家族ぐるみで親密な付き合いがあったようです。二人の関係については色々な見方がされていますが、クララが14歳年上であったことと、少なくともシューマン存命中は恩師の夫人であり、思いを抱いていたとしてもかなわぬものであったでしょうし、シューマンが亡くなって後は、むしろ現実的に物事を考えるようになって、友人に留まったのではないかといわれています。現に二人の交流、音楽面での共同作業は最晩年まで続きます。
 クララ・シューマン以外の恋人としては、まず、25歳の時に友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルトという女性が挙げられます。ブラームスは結婚を決意して指輪も贈りましたが、結婚生活が音楽活動の制約になることを恐れて婚約を破棄してしまいます。なお、この女性は、幕末の外国人医師として有名なシーボルトの家系に繋がっているようです。
 次には、シューマンの三女のユーリエ・シューマンへの失恋が挙げられます。ブラームスが何時の頃からユーリエに密かな思いを抱いていたのかは判らないようで、クララ・シューマンもまったく気がつかなかったそうです。ブラームスは36歳の時にユーリエの結婚が決まったことを知って大きな落胆を覚えて厭世観にとらわれると共に、シューマン家を訪れることも極端に減ったそうです。
 次に登場するのは50歳の時に出会ったヘルミーネ・シュピースというコントラアルトの歌手です。ブラームスは彼女の歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれ、彼女もブラームスが滞在していた居住地のヴィースバーデンまで訪れ、ブラームスも結婚相手として意識しますが結婚にまでは踏み切れませんでした。
 彼の友人の日記によればブラームスは43歳の頃に、「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころは地位が無く、いまでは遅すぎる。」と語ったとのことであり、23歳も年下のシュピーネとは結婚は考えられなかったようです。
 その後も57歳の時に、またまたコントラアルトのバルビとであい、音楽家としての魅力に惹かれます。
 他に、最初から惹かれることを恐れて距離を置いた女性として、エリーザベト・フォン・ヘルツォーベウルク(旧姓シュトックハウゼン)という名前が見られます。この女声は他の男性と結婚しましたが、ブラームス41歳の時に、この男性がブラームスと知己となったことから、彼女とブラームスとの交流が再会します。彼女は若い時にブラームスに弟子入りを希望したのですが、まれにみる美貌と才能のために、ブラームスは自分が必要以上に惹かれてしまうのをおそれて、指導を弟子に任せたと伝えられています。
 女性関係ばかり書いてしまいましたが、音楽生活や私生活で親しく付き合って影響を受けた友人(主に男性)については、後ほど概説します。

3.何処で暮らして、どんな音楽活動をした人か

 実は何処で暮らしたかが非常に書きにくい作曲家です。
 大バッハやモーツァルトであれば、何歳の時まではどこで、どういう地位についていて、次に何処に移ったということが鮮明に判るのですが、ブラームスの場合はそれが非常に難しくなっています。
 その理由は、本人が終生独身で気軽に飛びまわれたということもあるのでしょうが、やはりバロック時代や古典派の時代と違って、誰かの雇い主のもとで音楽活動をするというのではなく、芸術家(特に作曲家)として独立できたということも大きな要因だろうと思われます。すべての音楽活動を挙げようと思うと結局伝記をすべて写すことになりますので、ここでは思い切って抜書きをします。

(1) ハンブルグ時代

 生まれたのは、ドイツ北部の港町ハンブルグです。この地で幼年期、少年期を過ごし、父親の影響で音楽教育を受けます。その間、14歳の時にヴィンゼンに短期滞在し、モーツァルトの音楽にふれたり、その地の男声合唱団の指揮をしたりします。また、作曲も始めたようです。その後も本拠は大まかに言えばハンブルグです。24〜25歳の頃にはデトモルト宮廷で地位を得ますが、これも季節契約的で定住するには至っていません(デトモルト:ハノーファー南西数十キロの小都市。現在人口7万5千人)。
 その後、29歳の時に初めてウィーンにデビューしますが、それまではドイツ北部での活動が中心で、足跡を残した都市としては、ハンブルグの他では、シューマン家が居たデュッセルドルフ、ライプツィッヒ、ハノーファー等が挙げられます。何度かライン川に沿った徒歩旅行も行っています。このように各地を廻ったのは、クララ・シューマンや後で述べるような友人と演奏旅行のためが多かったようです。当時、ブラームスはピアニストとして高い評価を得ており、リストとは違った意味で19世紀を代表するヴィルトゥオーソの一人に挙げられていました。
 上記の訪問先の中で、ライプツィッヒはピアノ協奏曲第1番の初演の地でしたが、散々な評判で後々までライプツィッヒでの演奏には気乗りがせず、演奏する際には非常に慎重に臨んだようです。
 この時期に作曲されたものとしては、ソナタや変奏曲のピアノ独奏曲、ピアノ三・四重奏曲、管弦楽ではセレナード等の比較的小規模な作品が多くなっています。声楽曲では合唱曲が数多く生まれ、これは合唱団の指揮者を務めることが多く、その合唱団のために作曲したものです。中でもハンブルグの女声合唱団のための作品が重要で、その合唱団のために作曲された女声合唱曲は、我が国の女声合唱団でも良く取り上げられています(例:終曲に「フィンガルの歌」をもつ「2本のホルンとハープ伴奏による四つの女声合唱曲」)。また、ドイツ民謡の編曲もこの頃が多くなっています。ただ、ブラームスは自分が気に入らない作品は廃棄してしまったそうで、若い時期には当然修作的なものもあったと思われていますが、現在まで伝わっていません。
 ウィーンにデビューしてからは、ドイツ南部、オーストリア、スイスの都市も活動の場に加わり、カールスルーエ、チューリッヒ、バーゼル、さらにはハンガリー、デンマーク、オランダなどが加わってきます。
 音楽経歴の中での一つのエポックは、30歳の時にウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任したことでしょう。この時は1年ほどでやめてしまいますが、この後、時に応じてウィーンで活動し、やがて本拠をウィーンに定める契機にもなったといえるでしょう。
 ドイツレクイエムが作曲されたのはこの頃で、何度かに分けて作曲、初演されていますが全曲揃った姿で初演されたのは、36歳の1869年でした。この曲は紆余曲折がありましたが、最終的には大成功で、ブラームスの名声を高め、地位を確立するのに大きな効果がありました。

(2) ウィーン時代

 39歳の時にウィーンに移住しました。これはウィーン楽友協会の音楽監督就任が目的でした。ウィーン学友協会では、自らの作品はもちろんのこと、ベートーヴェン等の古典派の曲目の他に、バッハのオラトリオや受難曲、ヘンデルの作品等、バロック音楽の研究の成果ともいえるプログラムが演奏されています。
 しかし、音楽監督そのものは42歳の時にやめてしまいます。辞任の理由としては、協会側がブラームスの選曲に不満があったこと、ブラームスも色々と手続き等面倒なことが多かった事があげられていますが、それに加えて、この頃、ブラームスは作曲家として確固たる地位を築いていて、出版者から支払われる報酬も交響曲は1曲 1万5000マルクのレベルに達しており、出版の報酬だけで十分な生活基盤が得られたこともあげられています。
 音楽監督を辞めても、ウィーンを根拠地として、ヨーロッパ各地で指揮やピアノ演奏で多忙な時間をすごしました。このため、じっくりと作曲に取り組む時間がとれず、夏になるといわゆる保養地に長期間滞在するようになり、数多くの名曲が夏の保養中に生み出されます。訪れた保養地としては、オーストリア南部のペルチャッハ、リンツ近郊のバート・イシュル、スイスのトウゥーン等が挙げられますが晩年はバート・イシュルが圧倒的に多くなっています。
 また、45歳の時、初めてのイタリア旅行に出かけて深い印象を受け、60歳の1993年まで通産9回、友人を誘ってイタリアに旅行しています。
 生活の本拠地は死ぬまでウィーンでしたが、ウィーンの中では何度か転居したようです。最終的には54歳の時にカルルスガッセ4番地に部屋を借り、文筆家の未亡人であった家主のトゥルクサ夫人に終生世話をしてもらうこととなりました。臨終を看取ったのも彼女でした。
 なお、ブラームスは、ピアノ演奏、作曲の指導もしていますが、作曲に関しては相当手厳しい先生だったようです。その一方、演奏の方に関しては、生徒が女性の場合、特に甘かったようです。というか、才能や美貌に直ぐにほれ込んだようです。
 後半生に生み出されたもの馴染みの深いものとしては、1876年〜1885年に書かれた4曲の交響曲、1879年のヴァイオリン協奏曲、1881年のピアノ協奏曲第2番等の協奏曲のような大規模な曲があります。室内楽では弦楽四重奏曲が登場したほか、ヴァイオリンソナタやクラリネットソナタが登場します。また、声楽曲では歌曲が非常に多くなり、五つの歌、六つの歌といった小曲集が毎年のように、しかも複数書かれています。

4.どういう人と付き合ったか

 ブラームスの音楽人生を語る場合、演奏家、作曲家、評論家との付き合い抜きでは語れません。前にも少し触れたように、当時の名演奏家と知り合ったことで創作意欲を掻き立てられたり、知人、友人と各地を廻って演奏旅行で訪れ、評価を高めるとともに、また新たな知己を得て、さらに人生の幅を広げています。ここでは、その何人かについて簡単に触れてみます。

(1) レメーニ

 人生に大きな影響を与えた最初の人は、1853年に出会ったハンガリー出身のヴァイオリニストのレメーニです。レメーニは、イギリスに渡ってエリザベス女王のヴァイオリニストを務めたり、日本も演奏旅行で訪れるなど世界を股に活躍しました。ブラームスがレメーニの演奏を聞いて惹かれていたところへレメーニの方から伴奏の依頼が着て、二人で演奏旅行にでました。その時の演奏の中心はベートーヴェンのソナタなどが中心でした。この演奏旅行の途中でハノーファーでやはりヴァイオリニストのヨアヒム、作曲家のリストと知り合います。そういった意味でレメーニとの出会いは、ブラームスの音楽家としてのキャリアーに多大な影響を与えましたが、二人は意見が合わないことも多く、親密な関係は長くは続きませんでした。

(2) ヨアヒム

 1853年、ブラームスは人生において知遇を得た最も深い人物ともいえる、ハンガリーのヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831−1907)に出会います。彼はライプツィッヒ音楽院で学んでメンデルスゾーンに見出され、1850年にリストが楽長を務めるヴァイマール宮廷楽団のコンサートマスターに就任します。しかし、新しいスタイルを求めるリストとは意見が合わず、その地位を辞して1852年にハノーファー宮廷のヴァイオリニトに就任し、その直後の1853年にレメーニを介してブラームスと知り合います。
 二人は意気投合し、ブラームスは作曲するたびにヨアヒムに意見を聞くなどして、作曲家として成長していきます。有名なヴァイオリン協奏曲もヨアヒムに献呈されたものです。
 ただ、1879年(ブラームス46歳)頃、ヨアヒムの夫人で歌手のアマーリエとブラームスの関係にヨアヒムが嫉妬したことから二人の仲は険悪になります。冷えた関係は数年間続きましたが交響曲第4番にヨアヒムが理解を示したことなどから友情が復活し、1887年に作曲されたヴァイオリンとチェロのための2重協奏曲はヴァイオリンにヨアヒムを想定してかかれており、二人の仲を心配していたクララ・シューマンをして「和解の協奏曲」と言わせました。

(3) シューマン夫妻

 ブラームスの音楽人生に最大の影響を与えたのはシューマン夫妻でしょう。
 シューマンは1810年生まれですから、ブラームスから見ればほぼ1世代上に当たります。
 1850年ごろから友人の勧めがあって、ブラームスは、シューマンの批評、助言を得ようとして何度か自らの作品を送ります。しかし、反応は好ましいものではなく、送り返されたり、無視されたりしており、ブラームスはシューマンに対して近寄りがたい存在という印象を持っていました。このため、暫くシューマンへのアプローチは暫く途絶えていましたが、1853年にライン川沿いの徒歩旅行の際に友人ヨアヒムのところに立ち寄った際に勧められ、デュッセルドルフにシューマン一家を訪ねます。ヨアヒムの紹介状を持っていたからだろうと言われていますが、シューマンは今回は大歓迎で、妻クララとともにブラームスが持参したピアノ作品を聴いて絶賛し、クララは「素晴らしい人物と出会えた。」という主旨のことを書き残しています。
 この最初の訪問でデュッセルドルフに1ヶ月滞在して、すっかりブラームス家に溶け込み、その後もシューマン一家との交際は、ブラームス自身が死ぬ前年にクララが死ぬまで続きます。
 シューマンは、批評家としても影響力を持っていたことから、その力を活用してブラームスを世にだす労をとりました。シューマン自身が創刊した「音楽新報」で、「彼がその魔法の杖を振り下ろし、合唱やオーケストラの幾多の能力に彼の力を付与するようになるならば、その時、われわれの精神世界には、一層神秘的な輝きが現われることだろう。」と絶賛しました。さらに、出版社との仲立ちをしてブラームスを世に出すことに尽力し、ブライトコップフとともにライプツィッヒで出版事業を営んでいたヘルテルを紹介しました。(筆者注:現在でもブライトコップフ&ヘルテルはドイツの有力な楽譜出版社) その結果、何曲かの室内楽作品、歌曲が世にでることになりました。
 このようにシューマンの肝いりでブラームスの名前が世に知られるようになったのですが、ブラームスがシューマン家に溶け込んだ翌年の1854年、シューマンはライン川に投身自殺を図ります。シューマンは幻覚や幻聴に悩まされていて、頭のなかで「イ音」がなり続けていたそうです。
 幸い命は取り留めましたが、シューマンは精神病院に収容されることになり、妻のクララが一家を支えることになります。クララはピアニストとしては一流で、演奏家として活躍できましたが、子供も多く、ブラームスが家計の管理などを助けることになり、引き続き親密にシューマン家と交際することになります。クララとの間に交わされた手紙も数多く残されており、個人的な感情はもとより、音楽的な意見の交換の様が伺えます。

(4) リスト

 ヨアヒムは、当時欧州の音楽界で大きな存在であったリストを訪問するようブラームスに勧めます。1853年、20歳の時に、当時、リストが宮廷楽団の楽長を務めていたヴァイマールの地を、前述のレメーニとともに、訪問します。しかし、この訪問はあまり好結果を生まなかったようです。ブラームス自身はリストの影響力の大きさを認めつつも、その行き方には反対で、終生この関係は変わりませんでした。

(5) ワーグナー

 ワーグナーとの関係の始まりは面白いことが契機だったようです。1863年にワーグナーがウィーンで3夜連続の演奏会を計画した際に、ワーグナーからパート譜作りを担当していたタウジヒという人が手が足りず、ブラームスにその援助を求めたことがその契機だったといわれています。
 二人が直接あったかどうか、またあった場合にどのような会話があったかは記録が残っていませんが、ブラームスはワーグナーの楽劇が新たに上演される度に見てはいたようです。ただ、その見方は、当初は興奮しながらパート譜を写した初期からみると、徐々に覚めたもの、批判的なものになって行きました。一方、ワーグナーの方は、ブラームスをせいぜい室内楽の作曲家程度にしかみておらず、作品を評価していなかったようです。
 両者の関係を示す一つのエピソードがあります。それは、1883年にワーグナーが死んだ祭のもので、ブラームスが追悼のために月桂冠を送りますが、ワーグナーの妻のコジマは戸惑い、「私が理解するには、彼(ブラームス)は、私たちの芸術の友ではありませんでした。」と友人に語ったと伝えられています。もちろん、コジマがこのように言い放つ背景には、ワーグナーの生前、音楽評論誌などを通じて、ワーグナー、リストを中心とする新ドイツ派とブラームスを中心とする新古典派との激しい論争があったことが影響していることは間違いありません。

(6) ドボルザーク

 今度は、仲が良かった作曲家との関係です。
 42歳の時(1875年)、ブラームスはオーストリア国家奨学金の選考委員を引き受けますが、その時に見つけ出したのがドボルザークでした。そして、ブラームスは終生、ドボルザークの才能を高く評価し続けることになります。ドボルザークもブラームスの支援には深く感謝しており、そのような手紙も残っているようです。

(7) リヒャルト・シュトラウス

 リヒャルト・シュトラウスとブラームスとの関係が残っているのはブラームスが52歳の時、すなわち、1885年です。これはリヒャルト・シュトラウスが、後述するハンス・フォン・ビューローが指揮者を務めていたマイニンゲンの宮廷楽団の補助指揮者の就任したことによるものです。リヒャルト・シュトラウスは自分が作曲した交響曲の批評を求めたところ、様式的な点などかなり辛い点数をもらったようです。その後もリヒャルト・シュトラウスはブラームスとは違った方向の音楽を目指し、むしろ、ワーグナーやリストの方向に向かっていくことになります。

(8) グリークとチャイコフスキーの来訪

 1888年の正月、グリークとチャイコフスキーがブラームスを訪れます。
 チャイコフスキーはブラームスに直接会うまでは、ブラームスの音楽に否定的でしたが、直接合うことによって評価が変化し始め、1889年にはハンブルグで演奏されたチャイコフスキーの交響曲第5番をブラームスと一緒に聞き、演奏会後、食事をして大いに意気投合したことがチャイコフスキー自身の日記に残されています。
 なお、1888年正月の訪問に関するグリークの文書は残っていないようです。

(9) ヨハン・シュトラウス(二世)

 ヨハン・シュトラウスとの交流は、夏を過ごした別荘地で行われたようです。
 ブラームスは晩年には、イシュルで夏を過ごすことが多くなりますが、その地では数多くの友人との交流があり、中でもヨハン・シュトラウス一家との交流は親密で、ブラームスがシュトラウスの別荘を訪れることが多かったようです。

(10) ハンス・リック

 ハンス・リックは作曲家ではなく、当時の著名な批評家です。隆盛を極めつつあったワーグナーを中心とした新ドイツ派を真っ向から批判し、その理想とする音楽としてブラームスの音楽を賞讃しました。彼の書いた音楽論は「音楽美論」として有名です。筆者も学生の頃、読みましたが40年ほど経った今、内容は覚えていません。そこで、筆者が参考にした本によれば、ワーグナーが確立した「楽劇」は総合芸術を志向するもので、音楽そのものの位置づけは低くならざるを得ないのに対し、ブラームスなどの新古典派の音楽を純粋音楽と評価したものだとされています。
 ただ、この本によればハンス・リックの音楽の理解力には限界があり、自論の主張のためにブラームスを持ち上げましたが、ブラームス自身がハンス・リックの評価を、当を得たものとして捉えていたかどうかは疑問とされています。ただ、高名な批評家であることは認めており、その批評家に取り上げられることはよしとしていたとされています。
 ハンス・リックが「音楽美論」を世に発表したのは1850年代ですが、ブラームスとの出会いは1863年です。その後、二人の関係は長く続き、1880年代のブラームス晩年の作品に対してもハンス・リックは絶賛の言葉を送っています。

(11) ハンス・フォン・ビューロー

 ハンス・フォン・ビューローは当時の著名な指揮者であり、ピアニストとしても一流でした。
 二人が、初めて出会うのは1854年ですから、ブラームスが21歳ということになります。当時、ビューローはワーグナー等で代表される新ドイツ派を代表する指揮者として活躍していましたので、接点は無かったのですが、たまたまハノーファーの演奏会で出会いました。
 その後長い間二人の関係は記録に出てきませんが、20年以上経った1884年になって、ブラームスは、イタリア旅行の途中でマイニンゲンに立ち寄り、1880年から指揮者として活躍していたビューローに出会います。合わせて、ビューローの紹介でマイニンゲン大公とも知己を得ます。
 1885年に交響曲第4番が完成して、初演の地にマイニンゲンを選び、この地のオーケストラがビューローによって厳しく鍛えられて高いレベルにあったことと、マイニンゲン大公の計らいの結果、大成功を収めます。その後、このオーケストラを伴ってドイツ北部、オランダなどの演奏旅行を行いますが、その途中、フランフルトの演奏会で、ビューローとブラームスの間に衝突が起こり、2年程、冷え切った時期が続きます。
 1887年に和解してからはまた一緒に演奏活動を行い、ビューローのピアノ、ブラームスの指揮によるピアノ協奏曲の演奏といったものも記録に残っています。ビューローは1894年にこの世をさり、自身も衰えを感じていたブラームスにも大きな精神的なダメージを与えたようです。

(12) ミュールフェルト

 ミュールフェルトは、ブラームスが晩年に出会ったクラリネット奏者です。ブラームスは、それまでクラリネットを独奏楽器とする作品を書いていなかったのですが、1891年、イシュルで夏をすごしていた時にミュールフェルトと出会い、一旦創作活動からの引退を決めていたブラームスの創作意欲を掻き立てます。その結果、クラリネット三重奏曲、五重奏曲等が作曲されます。
 ブラームスはこれまでにも、優れた演奏者との出会いに触発されて作曲したことはたくさんありましたが、筆者の主観で、この最晩年のクラリネットを含めた室内楽曲は非常に印象的なため、このミュールフェルトを特に拾いました。

まとめ

 第1回目の今回は、かなり皮相的な内容になって、友人に関しての記述が紙面の多くを占めることになってしまいました。一人身ゆえに各地を旅行して多くの人に出会ったのか、たまたま記録が多く残っているのか、交通機関が発達して旅行が容易になったのか、その理由は良くわかりませんが、伝記を読んでみると、ブラームスの音楽人生に、友人との出会いが大きな影響を与えている印象を受けましたので、第1回はかなり、交友関係を書いてみました。
 引き続き、ブラームスがどのような曲を作曲したか、音楽史上どう位置づけられるかということ、また、今回取り上げているドイツレクイエムそのものについても順次書いて見たいと思います。

(Bass 百々 隆)

【参考文献】

 ブラームスに関する文献は余りありません。というより、大バッハとモーツァルトが多すぎるので、この二人を除けば標準的かもしれません。 今回参考にしたものは以下の通りです。
  1. ブラームス(作曲家◎人と作品シリーズ) 西原 穣著 音楽の友社 2006年
    《最近出たもので、通史として纏められています。一読を進めます。》
  2. ブラームス  門馬 直美著 音楽の友社 昭和40年
    《筆者が学生時代に買ったもの》
  3. ブラームス(作曲家別名曲解説ライブラリー) 音楽の友社 1993年
  4. クラシック音楽作品名辞典  井上 和男編著 三省堂 1985年
今回はまだ立ち入れませんでしたが、個人の生活を当時の人が語ったものとして、これも最近の2004年に音楽の友社から、次の物が出ています。
  1. ブラームス回想録集−1 「ヨハネス・ブラームスの思い出」 アルベルト・ディートリヒ他著
    《不勉強でまだ読んでいません》
  2. ブラームス回想録集−2 「ブラームスは語る」 リヒャルト・フォイベルガー他著
    《ブラームスの語録がかなり収録されていますので毒舌振りなどがうかがい知れます》
  3. ブラームス回想録集−3 「ブラームスと私」 オイゲーニエ・シューマン他著
    《オイゲーニエはローベルトとクララ・シューマンの末娘で、ブラームスのシューマン家での生活ぶりが良く判ります。》

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