通販レコードのご案内凄いサウンドに驚愕させられる。キングズウェイホール&ケネス・ウィルキンソンと当時の最高の会場・制作陣投入した会心作。

GB DEC SXL6908 ウェラー プロコフィエフ・交響曲4番/ロシア序曲《英ナローバンドED4盤オリジナル》GB DECCA SXL6908 ウェラー プロコフィエフ・交響曲4番/ロシア序曲

 ウィーン国立歌劇場はドイツ敗戦直前の1945年3月12日に空襲で消失した。
 戦中にナチス・ドイツから逃れて、ブルーノ・ワルターがいなくなった穴はクレメンス・クラウスやクナッパーツブッシュ、そしてフルトヴェングラーが埋めた。ときにヴォルフガング・シュナイダーハン、ボスコフスキー、ワルター・バリリが、ウィーン・フィルハーモニー史上最強のコンサートマスターのトリオだった。
 オーストリアは1955年に占領下から独立するが、それと国立歌劇場の再建は同時だった。
 ナチス・ドイツがポーランド侵攻した1939年に、ウィーンに生まれたワルター・ヴェラーは、17歳でウィーン・フィルに入団。わずか22歳でコンサートマスターに抜擢されると、11年にわたってその任務に就き、その間にヴェラー弦楽四重奏団を結成していた。
 幸松肇は、ヴェラーを「ウィーン・フィル歴代のコンサート・マスターの中で、彼がいちばん腕達者だったのではないか」と評価する。しかし1969年、突如ウィーン・フィルのコンサートマスターの地位を捨てて指揮者としての道を歩むことになる。と同時に、ウィーン最高の弦楽四重奏団と呼ばれたヴェラー弦楽四重奏団も1971年に解散。おそらくウィーン・フィルのメンバーにとっても、そしていっしょに室内楽を奏でていた人にとっても、この転向は青天の霹靂。ひとりのヴァイオリニストの人生の選択が、ウィーンの音楽界にとってどれほど重い意味を持つものであったか。ヴェラーが指揮者となり室内楽を見捨てた悲劇は、ウィーンが本来持っていた室内楽の魅力を変質させ、ウィーンの室内楽全体の悲劇に直結してしまった。
 ソリストの指揮者転向はよく聞く話である。しかしここまで音楽界に大きな影響を与えた「転向」は歴史として記憶にとどめておきたいトリビア向きの出来事だ。ウィーン音楽の伝統を生まれつき持ち合わせ、その未来をも託されていた歴史的な天才。周囲の期待を拒否してまで、それまでの生き方を彼はなぜに捨てたのか。
 これは彼の代表作となる、1974年から1978年にかけて録音されたプロコフィエフ交響曲全集からの一枚。この全集は、アナログ完成期にセッションを組んで録音されたもので、ケネス・ウィルキンスン、ジョン・ダンカーリー、ジェイムズ・ロックというデッカの名エンジニアたちによって、重量感とシャープネスの両立したプロコフィエフ・サウンドを楽しむことができるのが大きな魅力ともなっています。制作当時、まだ30歳代後半だったヴェラーの指揮は実にエネルギッシュで推進力に富み、反応の良いオーケストラを指揮して切れ味抜群のプロコフィエフ演奏を展開しています。

1977年11月ロンドン、キングズウェイ・ホールでのケネス・ウィルキンソンによるステレオ録音。同時録音の、「ロシア序曲」はジョン・ダンカーリーによるステレオ録音。

通販レコード詳細・コンディション、価格

プロダクト

レコード番号
SXL6908
作曲家
セルゲイ・プロコフィエフ
オーケストラ
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
指揮者
ワルター・ウェラー
録音種別
STEREO

販売レコードのカバー、レーベル写真

  • GB DEC SXL6908 ウェラー プロコフィエフ・交響曲4番/…
  • GB DEC SXL6908 ウェラー プロコフィエフ・交響曲4番/…

コンディション

ジャケット状態
EX
レコード状態
EX++
製盤国
GB(イギリス)盤
NARROW BAND ED4 ORIGINAL, STEREO (120g), Release 1979, Stamper 3G/3G

通販レコード

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  • オーダー番号34-25218
  • 販売価格3,300円(税込)

話変わって、時は第二次世界大戦末期。その作曲家にとって、作品番号100となる交響曲は非常に重要な意味を持っていた。彼の祖国は、ナチス・ドイツを相手に熾烈な戦闘を続けている。
作曲家の名前は、セルゲイ・セルゲーヴィチ・プロコフィエフ。「誰もが祖国のために全力を尽くして戦っている時、自分も何か偉大な仕事に取り組まなければならないと感じた」と本人が回想しているように、祖国愛に駆り立てられ、意欲的に作曲に取り組んだ。
プロコフィエフは1891年4月、旧ロシア帝国のウクライナ(現在は独立国)南部に生を享けた。幼少よりピアノに親しみ、作曲では驚くべき神童ぶりを発揮。13歳でペテルブルク音楽院に入学する。卒業後は、気鋭の作曲家・ピアニストとして頭角を現していく。
旅行で訪れたヨーロッパでは、ロシア・バレエ団を率いるセルゲイ・ディアギレフに出会い、才能を認められ、作曲を依頼された。西欧でも自分の力が認められるという手応えを掴んだのである。そして、1917年にロシア革命が勃発。政治混乱の中では思うような作曲活動ができないと考えたプロコフィエフは、アメリカに渡ることを決意する。
プロコフィエフは、ニューヨークを拠点に音楽活動を行い、その間、ピアノ協奏曲第3番や歌劇「三つのオレンジへの恋」といった名曲を生み出しているが、アメリカ国内での評価は必ずしも芳しいものではなかったようだ。
ボストン交響楽団創立50周年記念の委嘱作品として1929年から1930年にかけて、プロコフィエフが作曲した交響曲第4番。初版には作品番号47が付けられている通り、同時期にディアギレフのために書かれたバレエ音楽「放蕩息子」の素材が転用されています。1931年にクーセヴィッツキーの指揮、同楽団によって初演されたものの、1947年に思い切って改訂を施し、当初25分程度だった曲は45分ほどの長さに引き延ばされ、オーケストレーションも拡大され、作品番号も新しく付番、全く違った音楽へと変貌した。
第1楽章の展開部は、バレエ《道楽息子》Op. 46に使用されなかった素材のようですが、改訂版Op.112には全く登場しない。当時の聴衆が最も戸惑ったのは、無表情な盛り上がりに終始する不気味な第4楽章。非常に多数ある各種パッセージがモノトーンに響き、かなり緊密に縒り合されている。これこそピアノ協奏曲第4、5番に繋がるような精緻な構成=新しい簡潔性だ。彼の作曲姿勢は「次のステージに昇ったのだ」と気づかされます。
閑話休題。当初は亡命というような大袈裟なものではなく、本人は2~3ヶ月で帰国するつもりだったというが、実際に祖国への本格的な帰還を果たすのは、17年後のこととなる。
1922年、祖国は「ソビエト連邦」へと名前を変える。祖国から求められている時に、そして祖国に貢献できるうちに帰国すべきではないか、とプロコフィエフは強く思うようになっていた。
「私は再び祖国の地を踏むことはないだろう。私や私の音楽は、ソビエトでは誰も必要としまい。いま帰ったところで『何者か?』と問われるだけだ。もう、若者に道をあける番だ。私は、あの世で若い頃の過ちを後悔することになるだろう」。たまたま大西洋横断航路で同じ船に乗り合わせたラフマニノフが、彼にしみじみと語ったというこの言葉が、後押ししたといわれる。1935年、44歳になったプロコフィエフは、家族を連れてモスクワへ正式に活動の拠点を移した。
1936年には、最高傑作ともいえるバレエ音楽「ロミオとジュリエット」や、数ある作品の中で最もよく知られている「ピーターと狼」を完成。1939年には、カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」を世に送り出すなど、作曲家としての充実期を迎えた。
ヴァルター・ヴェラー(Walter Weller, 1939年11月30日〜2015年6月14日)1939年ウィーンに誕生。幼少期から天才と呼ばれ、17歳でウィーン・フィルに入団、22歳の若さでコンサートマスターに就任します。その後、ヨーゼフ・クリップスに指揮を学び、27歳でウィーン・フィルを指揮して指揮者デビューし、ウィーン国立歌劇場やフォルクスオーパーでも指揮をしたのち、イギリスなど海外でも指揮者として活躍するようになります。
その間、20歳の時にはヴェラー・カルテットを結成、30歳代の頃を中心に、弦楽四重奏団の分野でも評価されるなど、この時期のヴェラーの活躍ぶりにはすごいものがありました。
なお、小惑星 (5464) のウェラーは、彼にちなんで命名された。

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